きみのうしろで
018:君の声が聞こえなくなっても、僕は歩いていける
閑古鳥が鳴いている。葛が几帳面に事務仕事をこなす。出納帳や顧客名簿を取り出しては何かを書きつけるのを緩慢に繰り返している。急ぎの仕事ではないことを葛自身が承知している。それでも何かしていないと、この土地の熱さは脳裏を白く染めてしまう。夏の近い腐臭と汐の混じった空気に四肢を絡ませたまま、人々は土が割れるほど乾く夏を待った。港湾街は盛況で、その喧騒が葛や葵の写真館にまで聞こえてくるような気がした。人足や如何わしいものを客層に持つ通りではないから治安は比較的良い。薄氷色の隠し布は硝子戸を白く覆った。漏れてくる強い日差しとかすかな腐臭は眠いような気怠さを思い出させた。
「なぁ、葛。ヒトリって怖くないか?」
留学と言う生活拠点を別天地に構えた経験のある葵の台詞とも思えない。見知らぬ文化圏へ拠点を構えるにあたっての経験からなのだろうかと思いながら葛はそれを黙殺した。ペン先が止まる。びりりと奔るような刺激に目をやると、肉桂色の双眸がじっと葛を見据えていた。明朗闊達な性質のように髪は短く切られ襟足は刈られてうなじの白さが際立った。幼い傲慢さと意志の強さを備えた眉筋や通った鼻梁。案外厚みのあって桜色をしている唇が目についた。睫毛が一筋、化粧筆で刷いたように長い。
「ヒトリって怖くないか? 今はお前がいてくれるけどオレはお前の声が聞こえなくなったらやっぱり怖いよ」
葵の腕が長椅子の縁へ乗せられる。細い頤を乗せると子供が拗ねて唇をつきだしているようだ。襟もタイも弛んでいて手頸では針の動く時計の盤面が天井を不規則に丸く照らした。磨り硝子のように不鮮明な白い輪が揺れる。葛は眩しそうに眼を眇めた。葵の胡桃色がじっと葛の漆黒を捕らえる。葵の双眸は色合いとあいまって、まるで落果をそのまま嵌めこんだかのようだ。団栗であったり栗であったり橡であったり、重い実りで落ちてくる豊穣の証だ。
葛はペンを置いた。葵の眼が瞬いたがすぐに挑むように眇められた。
「それで? お前は俺の声が聞こえなくなったらどうするんだ」
無為な問いだ。寂しいとでも言ってほしいかと自嘲する。葛は自分がどんどんと沼へ嵌まっていくのを自覚した。空気は汗さえ蒸発すると思うほど熱いのに湿気と腐臭は取れない。葛の踝まで沈んだ沼は冷たく包む。不用意な結果であっても無様であっても心地よいのは感じた。
「振り向くさ。葛の声が聞こえなくなったら振り向いて」
「だが探しはしない、だろう」
それは双方が寝食を共にする際に極めた暗黙のルールだ。所属団体は機密を極め、横のつながりはほとんどない。互いにどんな仕事を請け負っているかさえ知らない。休暇の日付をあわせることも叶わない。無機的に知りあって寝床を共にした二人の過ちへの罰は不干渉であるということだった。組織にとって葵と葛の情的な交わりはけして得策ばかりではない。感情まで引きずるそれを歓迎するわけもなく、仕事に支障をきたさぬと言う枷で二人は何とかまぬかれた。だから葵も葛も、互いの声や姿がないからと言って探したりしてはならない。
「葛、でもそれはさ」
身を乗り出す。長椅子の背もたれが軋んで不穏な軋みを立てる。葛が制止する前に葵が椅子ごと転げた。長椅子であったから、ガタばったんと派手な音と埃が立ち上る。眼隠しと日除けをした硝子戸の外の通行人の好奇が見えるようだ。葵はうぅ、などとうめきながら起き上って短い髪をバリバリかいた。
「いってー…」
「馬鹿が…」
二人ともが自然と両端へ振り分けられて掛け声で椅子を起こす。座面の布地や詰めた綿の埃に時折せき込んだ。椅子の両端に佇むように二人の距離は開いている。
「俺達はここでとどまるべきなんだ。体の交渉だけならばいつでも切れる。それを免責理由にも出来る。だから俺達は」
「嫌だね、嫌だ。オレはお前と体だけの関係なんて嫌だ! 声がしなければ気になるし見えなくなれば探す!」
「よせ」
「よさないね。オレは自分に正直でいたいからな」
瞬間、葛の怜悧な容貌が歪んだ。切ないような苦しいような嘲笑のような、嘲りと侮蔑と羨望が入り混じった、けれどそれは一瞬の発露だった。葛の表情はすぐに管理下に置かれた。けれどそれを見逃す葵ではなかった。葵の眼がじっと刀身のように強い視線で葛を見据える。
葛はこの葵の強さが好きだ。細い首や頤で体のつくりなど、葛の体術でねじ伏せられる。それなのに葛の体は葵を絶対的な支配者のように従順だ。今もこうして葵と諍うその間でさえ、葛の体や脳や思考が止めろ止めろ止めろと何度も何度も警鐘を鳴らした。葵の体や思考は葛の支配権を友好的に剥奪していく。しかもそれは不快であるどころか自ら差し出すに等しいほどに蕩ける快感だ。ずぶ、と葛の体は膕まで沼に浸かった。脚を動かすのはもう難しい。靴はなくしたろう。引き抜くことさえ億劫で面倒だ。しかも沼はひんやりと心地よく怒りと激情に火照る葛の体をゆっくりと冷やしていく。
「オレは葛が好きだよ。だがらヒトリが怖い。オレだけになるのなんかいやだ。葛の声が聞きたい。顔が見たい。体に触れたい」
乗り出すような葵の言葉の激しさをせき止めているのは二人で起こした長椅子だ。木彫にビロウドを張った様な滑らかなそれは、写真館経営のための設え品だ。回り込むなり乗り越えるなりしそうな勢いの葵に葛だけがひどく静かだ。その脆弱な堰の向こう側で葛はひどく冷めたように葵を見据えた。羨ましいような気さえした。一人が嫌だ、声が聞きたい、顔が見たい、体に触れたい。それはきっとヒトとして当然の欲望でそれさえ抱けない己がひどく醜悪だ。葛は葵のことを嫌っていない。好いている。だが、それは常にそばにいたいという願望とは全く別次元のものだ。葛の記憶に隣に誰かのいた記憶はほとんどない。誰かの優しい手や腕や温もりや、そういったものは少なからず艶事を含んだ。だから恋と愛の違いが判らない。葵は葛に恋しているのか愛しているのかそれさえ葛には判らない。恋であればいつか飽きる。愛であればいつか冷める。こんな沼に嵌まった無様で醜悪なものに拘泥する理由などないのだ。
葵の激昂は泣き出す前の興奮状態だ。葵は感情とその発露を恐れないし厭わない。憤りも悲哀も慕情も葵にとっては当然の表現で、表すことになんの意識的な動作もない。自然。天然。無垢。純粋。葵の今までがそれらだけで出来ているとは思わないけれども、葛が今思う葵の構成物はそれらだった。自分には絶対にない、得ようもないもの。沈む。体が沼に沈んでいく。葵の熱に抱かれるたびに葛の四肢には枷が、沼が、縛り沈んでいく。葵の自由を見るほどに葛は己の縛りを意識した。葵の朗らかさに暗渠を見た。葛がどんなに辛くても哀しくてもさびしくても。葵に声をかけてはならない。そうしたら、あの、優しくて明るくて慈しんでくれる葵はきっと、手を差し伸べてくれるから。だからだめなんだ。
葵はきっとこの沼に手を入れて葛の手首を掴んで引きあげようとしてくれてしまうから
「……かずら。葛にはオレは、要らないのかな」
叱られた仔犬のように肩を落とす葵にそうではないと言ってやりたい想いと見当違いの指摘とが交錯して迷った。葛は葵を要らないとは思わない。だが恋愛という手続きを踏むことを考えた途端にそれは曖昧になる。だから葛は返事が出来ない。
「葛の声が聞こえなくなったらオレは、歩いていけるのかな」
長椅子の堰が二人の抱擁を阻む。言葉にならぬ熱源を火照らせるだけで葛はそれを伝達しようとは思わない。結実しない不確定要素など判断を誤らせるだけだ。葛の体は葵の熱源を欲した。胎内は疼くように蠕動し、指先にまで熱がめぐるようだ。それでいながら葛の体はどんどんと沼へ嵌まってもうそれは首まで浸かっている。葵の感情の起伏は激しい。それは葛が疾うに失くしたものであるから羨望や嫉妬や珍しさで葛はそれを眺めた。
言わなければならぬ暴言がある。葛はその粗暴さや傷や破壊力を承知していて、だからこそ言わなければならないと知っている。
「お前は俺なんかいなくったって歩いていける」
葵の幼さを残す顔が痛みに歪んだ。榛色の双眸が涙に潤み、引き結ばれた唇が感情のままに吐き出そうとする悪口を堪えている。葵は何とか冷静であろうとし、葛を理解しようとしている。葵の動きが葛のありとあらゆる痛覚を刺激した。嬉しい愉しい痛い苦しい辛い吐きたい、消えたい。
「かずら、葛、オレはお前がいなかったら」
泣きだしそうに歪んで、けれどそれはどこまでも可愛らしい。
「お前の声さえしなくなったらそれはお前がいないってことじゃないか」
そんなのは、いやだよ
「葵、お前は俺などいなくても歩いていけるから」
ふわりと、微笑む。笑い方など知らないから表情を弛ませる。それでも葵は照れたように頬を染めて嬉しそうで、だが何か不服そうだ。
「お前は俺などいなくとも、歩いて行ける」
葵の口が開く、刹那。
とぷん、と葛の全身が沼へ沈んだ。
葵の悲鳴が聞こえたような気がして、その振動は沈みきった揺れなのか葵の声の揺れなのかさえ不明瞭だ。
もう何も聞こえない。
耳の穴を穿つように冷たく心地よい泥が埋まり、開く口をさらに押し開くように泥が入り込む。
葛の体はすべてが泥濘に沈んでなんの感傷さえも受け付けなくなった。
それでも、葵、お前は
俺の声などなくとも先へ歩いていくことができるよ
《了》